2015年3月13日金曜日

株式を保有するということの意味

 昔から考え続けていることがある。投資家がある企業の株を保有するということには社会的にどういう意味があるのだろうと。

 表現が抽象的すぎるかもしれないので言い方を変えてみよう。
 「私がある企業の株を市場で買って保有することで、自分以外の誰かや何かの役に立っているのだろうか」

 私は保有している企業の最初の出資者ではなく、他の誰かさんから持分を譲ってもらった途中参加者だ。だから直接的には企業の資金調達に貢献していないし、仮に私が途中で株式を手放しても、企業に払い込まれた出資金が消滅するわけでもなく、代わりに他の誰かさんが私から株を取得して持分の変動が起こるだけだ。つまり、私がその企業の株を保有していようといまいと、企業価値には何ら影響を及ぼさないし、誰も喜んだり困ったりしない。

 ここで最初の疑問に戻る。
 社会的な観点から、私が株式を保有することの意味は何なのであろう。

 どうか笑わないで欲しい。一応、頭では理解できているつもりなのだ。
 私は少なくとも市場に流動性を供給している。
 仮に私が存在しなかったら、私に株を売りつけてExitした人は、保有株を現金に換えられなかったかもしれない。そのせいで、マイホームの頭金を捻出できなかったかもしれない。ほら、私は彼の役に立っている。
 また、私が存在しなかったら、最初の出資者だって出口戦略の不透明さから出資を躊躇したかもしれない。そうするとその企業は今のようなサービスを提供できていなかったかもしれない。私は最初の出資者と、企業と、そのサービスを享受する消費者の役に立っている。

 会社の所有権を細分化して譲渡可能にする。これが株式会社というシステムの神髄だ。だから流動性はかくも社会にとって重要で、私はその重責の一端を担っていると言える。
 でも、私の役割が流動性供給に過ぎないとしたら、プログラムによる高頻度取引の方が圧倒的に社会的な価値が高いことになってしまわないだろうか。それではあまりにも虚しい。

 会社は株主のものだというのはごもっともだし、理論的には完全に正しい。だから、高水準の利益を配当や自社株買いで掃き出さず、成長投資もせずに内部留保に回す企業はバカだ、アホだ、失格だ、という権利も当然ある。
 しかし私は奥ゆかしい性格なので、「お客様は神様」とか、「年上の方が偉い」とか、「オーナーは自由に文句を言える」とかの精神性を嫌う。美容室でカットのみと予約したのにシャンプーをされて1,000円余計に請求された時も文句も言わずに払ってしまう、そんな性格だ。
 だから、思う存分ダメ企業を罵りたいのに出来ない私にとって、今回のテーマは哲学的な問いというよりは、「免罪符を与えて欲しい」という低俗な欲求から生じたものだ。
 誰か教えてちょーだい。

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