マーケットバリューの本質

 市場価値は二階建てになっている。一階部分は株主資本簿価。二階部分は市場付加価値。
 市場は株主資本に対して一定のリターンを要求する。これが株主資本コストであり、伊藤レポートによって概ね8%くらいであろうというのが通説となっている。株主資本簿価に対して8%のリターン、すなわちROEが8%であれば、市場は株主資本簿価を市場価格と"認める"。これはその会社のPBRが1倍になるということを意味する。
 "認める"と表現したが、"認めない"という視点から同じ事象を表現してみよう。会社は人的資本などを駆使してROE8%を稼ぎ出したのであろうが、市場はそれを付加価値とは"認めない"。ROE8%を出す無形資産(人的資本、知的資本など)は確かに一定程度の評価が与えられるべきであろうが、生き馬の目を抜く株式市場は、それを付加価値とは呼んでくれないのだ。
 市場が考える付加価値は、極めてシンプルに表現できる。「ROE - 株主資本コスト」がそれで、市場はこれをエクイティ・スプレッドと呼ぶ。ROEは株主資本簿価に対するリターン、株主資本コストは株主資本簿価に対するコスト(=市場の期待リターン)と整理すれば、エクイティ・スプレッドが付加価値たる所以が即座に理解できることと思う。要するに、リターンがコストを上回った部分が付加価値、ただそれだけの話なのだ。

 エクイティ・スプレッドが正の値となる企業は、会計帳簿に載らない無形資産を多く保持していると考えることが出来る。それは超過収益力をもたらす特許やブランド価値であったり、安定した需要と競争環境に身を置いていることであったりする。
 補足: 一例として挙げた「安定した環境」は、企業の投下資本に対して(つまりROAやROICベースでは)必ずしも超過収益をもたらすわけではないため、株式投資や会計の世界にあって無形資産の文脈で語られることが少ないが、明らかにエクイティ・スプレッド(=無形資産)の構成要素だ。なぜなら、安定した環境は安定したキャッシュフローをもたらし、将来収益の予測可能性を上げる。それが企業(と企業に金を貸す銀行)に高レバレッジを許容し、財務テクニックで高ROEを出しやすくするのである。

 市場価値を上げるには無形資産の形成が大事。言うは易く行うは難しとはまさにこのことだ。
 時には身を置く環境が無形資産になり得るため、最初は単なる幸運でそれを掴みとる企業もあるだろう。しかしその場合とて手に入れた環境を維持するために別の無形資産が必要になろう。例えばロビー活動で既得権益を堅持する。例えば新興企業を安売り攻勢で叩き潰したり、脅威となる前に高値で買収して自陣に引き入れたり。そしてそれには当然コストがかかる。ブランド価値や特許、優秀な人材を常に揃えて置くなどという戦略で無形資産のメンテナンスを試みる企業もあるが、ほとんどの場合、自社の強みを維持するために多額のコストをかけている。
 ここで悩ましいジレンマが登場する。無形資産の維持・向上コストは当期の損益を悪化させ、ROEを下げる。つまり企業は長期のエクイティ・スプレッドを得るために短期のエクイティ・スプレッドを犠牲にせざるを得ない宿命を負っている。経営者は株価で評価され、株価は近視眼的に動く。したがって、経営者は自身の在任期間を超える回収期間を持つ超長期的な先行投資を実施するインセンティブを持ちにくい。しかし既に述べた通り、保身のために短期的な利益を優先して必要以上にコストを削りまくれば、無形資産はたちまち劣化して将来のエクイティ・スプレッドにダメージを与える。各種無形資産を構築するための個別戦術もさることながら、長期的なメリットと短期的なデメリットを天秤にかけ、異なる時間軸に適切に資金を配分することを経営者は求められている。
 賢明な投資家は様々な観点から企業経営をモニタリングするが、結局のところ、見ているのはこの資金配分の巧拙なのだ。なぜなら、それこそが経営の本質なのだから。

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