コロナ決算の留意点 -経済的損失と会計的損失-


 2020年、突如として世界中で猛威を振るっているコロナウィルスについて様々な情報が飛び交っている。この局面で政策金利を大幅に引き下げたFRBの施策などについて私とて意見がないわけではないが、この記事では諸々について思い付きを表明する代わりに、標記の事柄について述べたい。

 さて、パンデミックへの対処から実体経済が大きく痛むことは確実な情勢だ。私が眠気と戦うためにコーヒーを飲むにも、豆を栽培してもらい、日本に輸送してもらい、焙煎してもらい、川の水を清潔にろ過してもらい、ガスを供給してもらう必要がある。我々は皆が協力し合いながらシステムを回さざるを得ない世界に住んでおり、どこかの動きが極端に停滞すればシステム全体へ波及する。現代社会は泳ぐのをやめれば死んでしまうマグロのようなものだ。問題は実体経済悪化がどのような範囲、規模、期間で起こるのかだが、事象は現在進行形であり予測は困難だろう。既に一定の被害は顕在化しており、4月以降に続々と発表される20年3月期決算でその姿を垣間見ることになろう。
 そこで目にする決算とは会計基準に則って集計された数値である。会計基準は経済実態を表すために生まれ発展してきた。そのため会計的損失は経済停滞による経済的損失と多くの部分で重複する(だからこそ利用価値がある)が、しかし両者には重要な違いが横たわっている。その違いとは、会計損失の認識には閾値が存在することだ。

「部品発注がキャンセルされて売上がダウンし、従業員の人件費支払いで現金が純流出した。」

 上記の現実感ある損失を認識するためにややこしい手順は必要ない。現金収入より現金支出が多かったのだから損をした。ああ、誰の目にも明らかじゃないか。この時、経済的損失と会計的損失は一致する。

 次にこれならどうだろう。
「既に投資してしまった設備の資産価値は傷んでいないか。」
「経営状況が著しく悪化してしまった顧客に対する売掛金の回収は大丈夫か。」

 足元の現金流出が長期化せざるを得ないのなら既存設備が生み出す将来キャッシュフローは簿価以下となり減損を免れないし、顧客が破綻するなら売掛金は回収できないため貸倒引当金を計上しなければならない。会計上の閾値の概念はここで登場する。なぜならこれらの損失は本当に発生するのか(損失を認識することが本当に実態を表すことになるのか)自明ではないからだ。
 たしかに会計基準は保守主義の原則を採用しており、実態やリスクを保守的に織り込むべしとされている。しかしながら何でもかんでも保守的に損失を取り込みまくって、もし実現しなければあとで戻せばいいやという適当な処理が許されるわけではない。過度に保守的であることもまた会計原則を逸脱することになってしまう。したがって評価性損失は「発生可能性が高い」場合においてのみ認識されることとなる。
 そして「発生可能性が高い」という閾値は、裏を返せば可能性が高くならない限り損失は一切発生しないことを許容する。悪いことに閾値ははっきりと目に見えるわけではないため企業の都合で自由に上げ下げできる余地が残されている。ある企業はこれを良い機会とばかりに閾値を下げ次の決算で損失をたくさん計上してくるだろうし、またある企業は財務制限条項に抵触しないよう閾値を上げ損失を先送りするだろう。投資家がしばらくすると嫌というほど目にする損失は、実体経済の悪化を適切に表したものか、閾値を下げてコロナ以外の損失まで無理やり取り込んだものか、はたまた閾値を上げられたため損失取り込みが足りないのか、一目ではわからないものになる。ただ一般的に閾値は不用意に上げられ、会計上の損失認識は遅れることが多い。遅れた挙句、事態が収拾不能になったとき時限爆弾のように炸裂し、バランスシート不安を誘発して景気循環を増幅させる。

 不幸はこれで終わらない。評価損は基本的に過去に計上されたものの資産性を取り込むものに過ぎない。たとえ適切に損失が取り込まれたとしてもそれらは事実を後追いしているだけという見方もできる。減損損失の判定には将来キャッシュフローという未来の数字を用いるが、それを適用する対象はあくまで投資してしまった固定資産。
 行く先の見えにくい状況にあって会計情報は道標になってくれることもあるが、その利用方法にはある程度の注意が必要だ。健闘を祈る。

冒頭画像
『鳥』 アルフレッド・ヒッチコック




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